掘割
江戸時代に越後平野でも新田開発が本格的に展開し、延享元年ころの絵図を見ると、周辺地域には田潟、大潟、えびて潟、浦潟、的場潟などの一六の潟湖が描かれています。村々は低湿淡水が常であり、破堤による洪水の常襲地でした。文化一五年に三潟排水工事に着手、同三年日本海への排水河川である新川堀割西川底樋を竣工しました。その後も新川は改修工事がくりかえされ、主要排水幹線として、昭和四七年には新川河川排水機場が完成しました。工事開始から一三年を経て大正一一年通水、その後補修工事がおこなわれ、昭和六年に約一〇キロメートルの分水路が完成。この結果信濃川下流域を水害常襲地から開放して、排水機による湛水解消と土地改良への道を開いた。戦後、国営県営用排水事業によって大規模な土地改良が推進される。昭和二六年設立以来、区画整理化、乾田化、多収穫を実現し、新川水系を主力に排水機場六八、揚水機場四〇〇が稼動しておりコシヒカリを中心に作付けしており水稲収穫量は一〇アールあたり五三四キログラム、全国平均を上回るっています。
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